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見立鉱山

「見立郷土史」によると、元禄4年(1691)に馬場折新右衛門が大福山より通い発見し、見立山と名付けたとある。この見立山というのは鉱石の採鉱場所のことを言っていると思われるが、通常選鉱場のあったところを見立と呼んでいる。また従業員の住宅のあったところは黒谷飯場といっていた。いづれにしても約300年前に発見されている。

@見立鉱山の創業
発見されてからの創業の実態を記述した資料は余り見あたらない。元禄7年(1694)に内藤能登守家臣山川三郎右衛門に百間四方の免札を渡されたこと。天明6年(1786)7月22日に公儀役人が見立を訪ね、創業の様子を記録している。 伊藤徳造さんの手記によると、明治41年(1908)に前延岡藩主内藤政挙公が見立鉱山一帯(大吹鉱山を含む)の鉱区を買収し、大吹鉱床の下底の開発に着手し、107斤(64kg)の錫を生産したが、その後は操業と探業を併行した。その結果、富鉱脈を発見したので操業に確信を得て、大正6年(1917)に見立本舗の開発に着手し、見立に精錬所を設け、鉱石を運搬するために坑口と精錬所を結ぶ1500mの索道を開設した。更に諸物資を運搬するために日ノ影までの道路の開設など見立鉱山としての本格的操業が始まり、大正6年(1917)に錫の生産高が2万1946斤(13.2t)大正9年(1920)には6万983斤(36.6t)に達し、一事重要鉱山の指定を受けたが、錫の暴落のため一時休山した。

A採鉱
内藤家経営時代の採鉱の現場は精錬所より約15町(1650m)と所にあり、通称その場所を「採鉱」といっている。錫価の暴落の後、一旦休山していた見立鉱山をH・ハンター氏(龍三鉱業)が大正13年(1910)に木浦鉱山・見立鉱山を買収し、更に大正15年(1926)11月に外国資本100万円で東洋鉱山株式会社を設立し、英国人鉱山技師並びに英国製機械の導入など近代設備を持った見立鉱業所として本格的な操業に着手した。内藤家経営時代の採掘方式が手掘りであったが、H・ハンター氏の経営になると、英国から各種機械を輸入し、その中でも採掘に関係するものとして削岩機とこの動力になるエアーを作るコンプレッサーともに、その標示にはメイドイン・ロンドンの文字盤があった。この機械のあったところは、現在の「リフレッシュ出羽」のある場所から少し上にあり、その隣接に変電所があった。ここで作られた圧搾空気は選鉱場より一山越えた採掘現場まで鉄管で送られ、削岩機を動かし、ダイナマイトによって岸壁を爆破して採鉱し、坑内トロッコで索道の積み込み場まで運ばれて、バケットに積み込まれ、見立の選鉱場に送られた。索道は4000m、しかも複式架線になり、搬送量も倍加した。架けられたいるバケットの数は約40個で総重量は27tになる。これを支える英国製のワイヤーロープや鉄塔などを見るに当時の英国の技術水準の高さが伺える。

B閉山
太平洋戦争開戦前頃は見立からトラックで延岡駅に送られ、ここから汽車で門司港に運び、船でシンガポールに運ばれ、精錬されていたが、後に大分県の佐賀関に送られ精錬されるようになった。見立鉱山の錫の生産も日本がマレーシャを占領し、錫を得たので、昭和19年から鉛の生産に切り替えられ終戦を迎え、昭和21年休山となった。戦後は昭和26年に、旧鉱滓(こうさい)の回収により操業が再開され、昭和30年に富鉱帯を発見し、この頃の見立鉱山の生産高は当時の国内生産高の半数を占め、錫鉱山としては日本一であった。昭和38年鉱床の品質低下により休山し、昭和44年閉山となり、江戸時代以降続いた見立鉱山も一盛一衰を繰り返しながら遂に鉱山としての命脈の終焉を見るに至った。

C従業員の生活
会社では重役・社員・準社員・従業員の身分がはっきりしていて、社員は主に事務職や現場指導者で月給制であり、従業員は採鉱夫、選鉱場・雑役に従事する人たちで日給制であった。住宅も社員には一戸建てが渡り、従業員は2世帯、3世帯入る長屋造りで風呂も共同であった。住宅の下方を社員住宅、上方の住宅を黒谷飯場又はハーモニカ長屋と呼ぶ人もいた。生活物資も毎日のように延岡からトラック2,3台で鉱山直営の販売所に運ばれ、社員・従業員に販売されていた。 現在キャビンのたっているあたりが商店街(主に食料品)で夕方になると大変なにぎわいであった。

見立鉱山の英国館

日之影町史

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