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耳川の戦い

天正5年に都於郡の城主伊藤義祐は島津氏のために破れて豊後に逃れ、大友宗麟に応援を求めました。熱心なキリスト教信者であった大友宗麟は、翌年の天正6年9月には日向の国のキリスト教化をもくろみ、宣教師を伴う5万の大軍を率いて日向に入り、まず延岡市南方の松尾城にいた島津の配下の土持氏を滅ぼして、延岡の無鹿に本営を置き、兵を遣わして島津軍の出城であった高城を囲みました。高城は児湯郡木城町にある古い城で西南に高城川を帯び、三面は切りたった丘で、七つからの堀を抱え、なかなかの要害でした。しかも薩軍の名将山田新介有信が立てこもっていましたので、豊後の大軍が包囲してもビクともせず、勇敢に防ぎきったのです。このとき城にはわずかに500人の兵がいたに過ぎなかったので、島津家久は千余人の兵を出して助けていました。豊後の兵は兵糧攻めにしようとしましたが、なかなか落ちないので、近くの山々から樹木を切ってきて、薪とし、これを谷に埋めて火をつけましたので、城兵は二の丸を捨てて本丸と七曲がりの丸に入り、落城間近に見えました。これを見た薩摩の領主島津義久は、日薩隅三カ国の兵を率いてきて佐土原に進み11月2日島津義久が佐土原城に入ると、合戦は島津、大友氏の総力戦になりました。義久は10日の夜から野伏せを放って豊後道の通路を乱し、11日に3万の本勢で大友陣に襲いかかりました。、島津義弘は都於郡に陣し、島津右馬以久(うまゆきひさ)は財部(今の高鍋)に陣を敷き、北九州の雄、大友軍と南九州の豪族島津軍との一大決戦が展開されたのです。はじめ薩軍は豊後の兵と戦い、誘って南に退くと、豊後の兵はこれを追って小丸川を渡って突き進みましたが、豊後の兵が川の中ごろまで馬を乗り入れた頃を見計らって、川上に伏せていた島津以久の軍がやにわに横からこれを襲ったので、豊後の兵は散々に破れ、進めば義弘の軍に討たれ、退けば以久の軍に追われ進退に窮したとき、高城の兵も城門を開いて討ってでたので豊後の兵は大半を討たれて耳川に退きました。かくて島津の軍は耳川の南岸に陣し、大友の軍は耳川の北岸に陣を取り、川をはさんで戦いましたが、、両軍の旗、さしものが川風にはためいてすさまじい景観を呈した、と伝えられています。この日、豊後軍の先鋒は延岡の大友宗麟に使いを送って、前線に軍を進められたいと頼みましたが、宗麟は島津氏など眼中に無く、島津を討つのに何ほどのことがあろうかと延岡から動きませんでしたので、豊後の諸将は非常に憤慨して、今は討ち死にのほか無しと決心したといわれています。この戦争で豊後軍の戦死者は4,000人に達し、薩軍もまた3,000人の戦死者を出したといわれています。この戦争の殊勲者である島津以久の攻撃は、「右馬頭(うまのかみ)の横入れ」として有名な話です。

立磐神社のすぐ北西にある中ノ島の鉄橋の下に、「耳川合戦の地」の標柱が建てられていますが、ここから上流の余瀬(よせ)までの一帯が逃げる大友軍と追う島津軍が戦った場所とされていて、美々津港には数多くの死体が流れ着いたといいます。

耳川の古戦場跡・・・耳川に浮かぶ中州、中ノ島にその碑が建っています。

天狗日暮れ・・・この辺りも当然激戦地だったでしょう。

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