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延岡藩主牧野氏

牧野氏紋

正徳2年(1712)三浦氏が三河国刈谷に転封になると、その後任として、三河国吉田から、牧野大学成央(なりなか)が延岡藩主に任命された。その年の7月12日、牧野成央は8万石で延岡城に移ってきた。前の三浦市と比べると倍以上の禄高である。これは天領であった地域の一部と、宮崎・豊後等に飛び地を合わせたからである。

牧野氏も前任者の三浦氏の行政制度をそのまま受け継ぎ、前任者の有馬氏や三浦氏の組織と大差なく、庄屋・弁指制度・高千穂代官等は変わるところは無かった。牧野大学は僅か7年で没したので、その子牧野越中守貞通(さだみち)が家督を継いで延岡藩主になった。僅かに12歳であった。

この時代は徳川幕府の基礎が確立して、諸制度が整った頃であり、五人組制度等、徹底した時代である。五人組制度とは、室町時代に武士の戦術のために生まれた制度であったが、秀吉時代に庶民の間にも生まれ、徳川幕府になると、警察目的で町人百姓の共同責任制となり、庶民の最小単位となった。

藤江監物の高千穂配流

牧野貞通の代で一番の問題は家老藤江監物投獄事件である。これは藤江監物の才を妬んだ連中の、中傷による疑獄事件であった。

■藤江監物疑獄事件の真相

■藤江監物の牢跡と墓石

七ツ山村の百姓騒動

牧野氏が延岡に赴任した翌年、七ツ山村で百姓騒動が起きている。この事件は七ツ山の庄屋であった甲斐家の古文書に「正徳3年覚書」というのがあって、それに記載されている事件であるが、庄屋その者が事件本人であり、事件だけを挙げ、原因が記してないので詳しい事情はわからないが、七つ山村の弁指が集合して打ち合わせ、庄屋の事について延岡藩の地方(じかた)役所に訴えた事件である。庄屋個人の問題なのか、藩命を忠実に農民に伝えて徴税を厳しくしたので庄屋が疎まれたものか、その辺はわからないが、村を挙げての騒ぎが有ったようである。

牧野氏は延岡にいる事二代、36年で延享4(1719)年3月、貞通は常陸国笠間に移封された。牧野氏は明治になるまで笠間にあり、明治になって子孫は子爵に列した。

諸塚村史より


■延岡城跡・・・高橋元種によって築かれた本格的な平城です。

■笠間城・・・牧野氏が移封された笠間の城です(ウィキペディア百科事典)。

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