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黒田の家臣、惨殺死体の発見時の様子

1862(文久2)年、5月4日、細島港外にある古嶋(こしま)の平場という磯辺で、三人の侍の惨殺死体が発見されました。最初の発見者は細島に住む庄八という36歳の男と、同じく細島の女房たち4、5人でした。その侍たちの余りのむごたらしい死にざまにびっくりした庄八は、すぐに細島の町まで飛んでいって、庄屋の正三郎、年寄りなどに知らせると共に、富高新町にあった陣屋まで報告に行きました。そのときの富高陣屋の役人は手代の長谷川孝平でした。「天領」の武士は、この富高陣屋の手代だけでした。しかしこの武士である長谷川孝平も、そんな事件ははじめてでしたので、すぐさま現場に駆けつけてきました。侍たちの死体は、すぐに検視が始めれました。現在残っている検視書によりますと、
@最初の一人は27、8歳ぐらい。顔は長いほうで、目口耳鼻は普通、歯並びも良く、さかやきは5、6分伸びていました。木綿の縦縞の綿入れの着物でしたが、それは切れ切れになっていました。帯は木綿の小倉織りでフンドシは無く、右の手は麻紐で縛られたまま惨殺されていました。その身体には、背中に長さ35.6cmほどの深い切り傷、右肩から背中にかけて、長さ30cmの深い切り傷など、八箇所の傷がありました。
A二人目は、年齢28、9歳ぐらい。目鼻口普通、歯並び良く、さかやきは5、6分伸びていました。木綿の襦袢に茶色がかった縦縞のひとえ物で、やはり切れ切れになった着物をまとい、木綿博多織の帯をしめ、木綿のフンドシを締めていました。左足には紺足袋をはき、やはり麻紐で右の手を縛られたまま、全身に9ヶ所の深い切り傷を受けていました。
B三人目は32、3歳ぐらい。顔は丸いほうで、目鼻耳口は普通、歯並びは良く、さかやきは5、6分ほど伸びていました。木綿襦袢に木綿綿入れの切れ切れになった着物をまとい、紺色博多織の帯をしめ、ひとえの羽織の切れ切れになったものを着ていました。フンドシは無く、紺足袋を履き、これは左の手を麻紐で縛られたまま惨殺されていました。全身に8ヶ所の深い切り傷があります。この最後の一人の腹巻には、「平生心事豈有他、赤心報国唯四字、黒田家臣、海賀直求」と書いてありました。
この三人の侍たちは、後になって、尊王の志士であることがわかり、名前も海賀直求、千葉郁太郎、中村主計であることがわかりました。最初にこの三人の遺体を発見した庄八はその後長くこの三人の墓を守ってすごしました。

日向市の歴史より
 

黒田の家臣


 
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