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黒田の家臣

黒田の家臣が島の名だと聞いて最初はびっくりするが、もともと字平場の地続きの磯で、幕末のこの地であった事件がきっかけでこの名がついた。この島で斬られた三人の侍の一人が黒田藩の家臣だったからである。京都寺田屋変にともなって犠牲になったもので斬ったのは薩摩藩士だといわれる。明治維新前夜の倒幕運動の中でいわば同士討ちの感が強いが、複雑な勤皇各藩の動きが背景となっていたのだろう。 墓守を務めた黒木庄八翁の顕彰碑とともに、島の高台にあるこの墓は、以前はもっと低めの位置にあった。この墓地改革運動を協力に推進したのは、黒木庄八翁とは遠縁にあたる黒木秋好氏、高潮の時には波に洗われる為に、保存の手立てが必要と各方面に働きかけ、やっと当局の墓地改葬許可を取り付けた黒木秋好氏は細島の青年達の協力を受け、昭和29年8月4日にその発掘を行い、曹洞宗観音寺で供養の後、改めて現在の位置に移転埋葬した。そのとき竹べらで一つ一つ骨の土を洗った黒木秋好氏の話によると、「三人とも骨に大きな刀傷はあったが、虫歯は一本も無かった。」という。なおこの文久の変で行方不明になった青水頼母という志士があり、切られたのはもう一人いたのではないか、千葉郁太郎がこのとき19歳なのに対して、一番若い侍でも27,8歳ということからミステリーと判断されているが、斬られた真相とともに今尚解明されていない

黒田の家臣へ・・・

引用:。郷土の地名雑録 佐藤忠郎著より

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