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蚊口浦

蚊口浦 蚊口(かぐち)という名称は、語源的にはその位置が小丸川と宮田川の両河口であることから「川口」であったものが「かぐち」に変化したものであるといわれています。藩政時代の蚊口浦は日向灘に面し、北の小丸川と南の宮田川との間に位置し、宮田川がその河口あたりから蛇行して北に流れ、小丸川の河口に注いでいたためにいわば島のような形であったそうです。城下町から約壱里(4km)のところにある独立した集落であり、船乗りや商人たちが多く住んでいたようです。寛政四年(1792)蚊口浦を訪れた高山彦九郎は700軒ばかりの人家があったと「筑紫日記」に書いているので当時この港は相当賑わっていたことが想像されます。当時尾鈴山系の木材は高鍋藩の重要な財源でした。切り倒した木材を小丸川に流して、筏に組んで運び出し、蚊口港に集積して、そこから外部へ搬送し資金を稼いでいたものと思われます。又当時宮田川は川幅も広く、水量も多かったので川舟を使って生活物資を上流の集落へ運んだといわれています。

宮崎県教職員互助会

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