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伊藤義祐のその後

伊藤氏の祖は、鎌倉時代前期の武士工藤祐経(〜1193)です。祐経は伊豆の伊東にあった領地を従弟の伊藤祐親に奪われたので、祐親を狩場で傷つけ、その子祐泰を殺してしまいます。その後源頼朝の寵を受けましたが、富士の巻狩り折に祐泰の遺子曾我十郎祐成(すけなり)、五郎時致(ときむね)兄弟に殺されました。「曾我物語」にいう曾我兄弟の仇討ちです。祐経の子は伊藤祐時(すけとき)と名乗り、日向の地で勢力を増大させていくことになります。そして義祐は祐時から数えて12代後の当主でした。その後国人領主としての道を歩み始めた伊藤氏は、義祐が天文六年(1537)家中内の争いを制して家督を継ぎ、権力を確立して戦国大名としての姿が完成されたとしています。領国主の地位を得た義祐は天文十年、朝廷から十五位の下・大膳大夫の官位を得、義祐が家督を継承すると日向国内では伊藤・島津氏の合戦が激化していきます。両氏は長年にわたって飫肥(日南市)の領有をめぐって戦いを繰り返してきましたが、永禄四年(1561)に伊藤氏が合戦に勝利して、飫肥を確保すると、焦点は真幸院(まさいん);えびの市に移ります。元亀三年(1572)伊藤氏が島津領の加久藤(かくとう):えびの市、に攻め込み、飯野(えびの市)に迂回したところを島津氏から攻撃され、「木崎原(きさきばる)合戦」となります。この戦いで伊藤氏は数え切れない程の犠牲者を出し、遺体は放置され片付けられなかったといいます。義祐はその後も領国経営の維持に努めますが、天正四年(1576)島津氏から高原(たかばる)城を奪われ、北からは翌天正四年(1576)縣土持氏が門川に軍を出し、自国内の乱れもあって、ついに豊後の国大友宗麟を頼って落ちることになりました。
    島津氏に追われて高千穂の河内にたどりついた時、伊藤義祐はすでに65歳でした。河内は、島津軍に追われ、都於郡(とのこおり)を捨てて、豊後に逃れる伊藤義祐(よしすけ)にとって、日向における最期の地になりました。立岩(諸塚村)を発った義祐一行は、狩底(高千穂町)から三ヶ所(さんがしょ)村,、五ヶ瀬町の内ノ口に出て、宮之原(みやのばる)・桑ノ内を通り、波帰(はき)の瀬を渡って、河内村にたどりついたのは天正五年(1577)12月25日の事でした。義祐はひとまずここに足を止め、豊後の大友宗麟に使者を派遣しました。ついこの前まで日向の地に君臨した義祐も寒さと飢えに震えながらこの寒村で天正6年の元旦を迎えたのです。宗麟からの使者は正月七日になって河内村に到着し、義祐とその子ら(祐兵、義賢、義勝)を迎えに来たことを告げました。一行は使者に従い、五ヶ所村を通って豊後の国に足を踏み入れましたが、このときの宗麟は九州の北半を平定し、南半の雄、島津氏と覇権を争っていた時期です。その中間にある日向の領主義祐を助け、その復帰を理由に南九州の攻略を狙っていました。宗麟は大野郡野津院寺小路村光明寺に一行を迎え入れ、野津院300町を給したといいます。
    伊藤氏没落後の九州では島津氏と大友氏が覇を争うことになります。伊藤義祐は大友氏の庇護の下豊後でしばらく過ごしますが、大友氏が高城の戦いで破れてからは居辛くなり、やがて天正7年(1579)野津の光明寺を出て、20人余りと共に四国(伊予)に渡り、貧しい4年を送ったといいます。その後秀吉のいる姫路に移りました。そこで秀吉見参の機会がありましたが、義祐は行かず、子祐平にお家再興を託して見参させました。そのとき義祐は次のように心境を述べたといわれます。 「われ不肖なれども、かたじけもなく三位にのぼり、齢(よわい)七十を越えたり。今浪人の身とはいいながら、なんの面目ありて木下藤吉郎(豊臣秀吉)ごときに追従せんや……」日向約28万石を支配した戦国武将の意地をみせています。 そして天正12年10月、一人周防の国山口をあてども無く彷徨(さまよ)います。後家族を置いている堺にむかいますが、その途中で病気に倒れ、天正13年8月5日その波乱の生涯を閉じます。享年73歳でした。中世日向のほぼ全域を支配下に置き、城主39人、領主7人、これに佐土原と飫肥を加えた「伊藤氏48城」の布陣は、まさに伊藤氏全盛期の象徴でした。義祐は佐土原に住み、豪勢な生活をしたといいますが、京都をまねて五条、愛宕、祇園などの地名を残しています。また西都市三納の長谷寺や山路地区の羅紗門天像などの配置も、京都を意識したものでした。このように権勢を欲しいままにした義祐の末路の哀れさを思うと人生のはかなさも又ひとしおのものがあります。義祐の子の祐兵は四国にいましたが、どういう経緯かわかりませんが、天正10年以来、豊臣秀吉の配下に入り、五百国を与えられていたといいます。秀吉は家を失った武将たちをお伽衆として抱えていたから祐兵の場合もそうであったかもしれません。いずれにしても九州征伐に来た豊臣秀長の軍に属していました。そして祐兵が豊臣秀吉の国割りによって、飫肥(日南市)城主として復帰を果たしたのは、都於郡を出て十年が経過した後でした。

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