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伊藤義祐一行の豊後落ち(2)

木崎原の合戦の戦後処置の失敗

この木崎原の合戦で多くの家臣を失った伊藤氏は、その遺族の援護に専念することなく、相変わらず京の都ムードにふけったので人心は離れてしまい、伊藤氏累代の股肱の臣といわれた近隣の武将まで伊藤氏に離反し、これまで忠義顔した武士たちは伊藤氏より島津氏の顔色を伺うようになったのである。

薩摩軍の侵略

伊藤氏の弱体化を見て取った義久は、それから四年後の天正4(1576)年、弟の義弘と共に義祐の居城日向の高原を攻めてこれを落とし、さらにその翌年12月には同じく義弘とともに伊藤征伐の駒を日向に進めたのであった。

伊藤氏の守りであるはずの野尻城主は真っ先に城門を開いて島津軍を迎え、島津軍は続々と野尻に集結を始めた。急を聞いた伊藤義祐は、手元の兵を率いて紙屋まで出陣したところ、この付近の守兵がまた島津軍について義祐の背後を突く気配をみせたので、義祐は危険を感じて一戦も交えず早々に佐土原に引き上げた。

佐土原に引き上げてみると、佐土原の空気は一変していた。島津軍の攻撃に備えて急ぎ参陣するように召集令を出していたのに、一人も来ないばかりか、島津軍が到着すればその先兵となって、一挙に佐土原城を襲うような気配を見せたのである。

伊藤一行の豊後落ち

こうなると頼りに思うのは肉親ばかりである。ぐずぐずしていると何時味方から攻められるかわからない状態であった。その日(8日)の中に近親を集めた義祐は、城脱出を決意して、伊藤の血脈を絶やさないためにも、ひとまず豊後に落ち延びて時節を待ち、伊藤家再興を図ろうということになった。

伊藤義祐の長男義益(この時は既に死去)の妻阿喜多(おきた)は、豊後国大友宗麟の姪であるところから、島津家に対抗できる大友氏の縁を頼って身を寄せようというわけである。明日は危ないということで、翌9日未明、義祐と祐平は佐土原城を出発し、都於郡城に居た義益未亡人の阿喜多とその三人の子供達、 祐平夫人の阿虎(おとら)等々、新田原で打ち合わせどおり出合って、一行100人余りの大所帯になった。しかし大部分は女と子供で、縁に繋がるわずかの護衛兵が従うだけである。

本道は伊藤氏に恨みを持つ高鍋城主をはじめ、宿敵の間柄で島津と同盟を結んでいる土持氏領であって通れない。新田原で進退に苦慮しているところへ、穂北城主長倉洞雲斎があたたかく一行を迎えてくれ、一行は漸く胸を撫で下ろした。洞雲斎のねんごろなもてなしで、その夜は穂北城に一泊したが、城下の地下人(ちげにん:身分の低い庶民)の中には異心を抱いて、義祐一行を討ち取って手柄にしようとする者がある、という噂が耳に入ったので、一行は夜の明けるのも待たず未明に出発した。それで一番安全と思われる米良山中に向かった。

「その頃」三納城では。

三納城は伊藤氏48城の一つであった。永禄年間の城主は飯田肥前守祐惠である。伊藤義祐一行が穂北を出発し、尾泊往還に向かおうとしていた頃、三納城では島津軍を迎え、必死の攻防戦の最中であった。

都於郡城を襲った島津軍は、城中の主従が北のほうへ逃れたと知り、直ちに三納城を襲ったのである。飯田肥前守祐惠は老いたりとはいえ、日向第一の槍の名手で知られた武将である。勝敗はすでに決していた。その中で必死に防戦に努めたのは、主人たる伊藤義祐を少しでも遠くへ逃すという、武人の仁義であったろうか。10日落城、一家郎党ことごとく討ち死にして、自分は割腹して果てた。

米良に向かう

一行は険しい山道を抜け、風雪に悩まされながら、米良に向かった。 米良山は名に負う難路であり、栄耀栄華に育った子供や奥方にとって、針の山であった。

「日向纂記(さんき)」には「時は天正五年十二月十日、義祐主従は城下(穂北城)の地下人等野心を挟みて撃ち奉るべき企て有りと聞きたれば、夜に紛れて穂北城を立ち出て、米良山中に分け入る。供奉(ぐぶ)の歴々百余人其外雑卒許多召具せらる。その日は雪降りて寒威堪へ難く。さしも険しき深山にて、乗物など通るべき路ならねば、奥方姫君を始めとして、附き従える女中など、皆歩き習わぬ山路に足を傷つけて、長るる血潮は鞋(わらじ)を染め、一足後るれば追い付き参らすこと能わず、女中など自害して死するものあり、泣き叫ぶ声の凄まじく聞えて、哀れなりしことどもなり」とあり、その悲惨さが思われる。

姫の一人も足腰が立たなくなり、倒れてしまった。義祐は一行の主であり、先を急ぐ身であった。見捨てるには忍びなく、さりとて回復を待つ余裕もなく、涙を流して姫を切り、路傍の丘に葬ったという。その地を一丁坂といい、今でも姫塚として残っている。

尾泊において、島津勢の追撃を受けて苦戦していた時の事である。米良中尾村の住人、的場兵部安光は寒中の川に入り、筏を引き寄せ、義祐一行に一ツ瀬川を渡らせた。この地点は「湯の内渡し」とも「本流瀬(ほんだせ)の渡し」ともいわれる。義祐は的場兵部の労に感謝して、腰に差していた小烏丸を渡したという。

あまりの急の出発に、一行は食を求める路銀にすら乏しかった。こうしたなかに、八代駿河守祐興の子女で、小さき頃より義益に仕えていた御子の方という侍女がいた。御子の方は都於郡城を出る時、阿喜多夫人の手元にあった銀子三百匁を預けられて首にかけていた。その折に機転を利かせて、多くの帯を結わえ持ってきていた。その銀子や帯で米や豆などを求めて飢えをしのいだという。

三納城を落とした島津軍の一隊が後を追っているという知らせを受けた義祐は窮地にあった。義祐も武士達も飢えや疲労と寒気や睡魔に襲われて戦う気力も無かった。だが落合越後守兼教父子が進み出た。「後ろなる敵は、某(それがし)とどまって食い止め候はん。一時も早く落ちさせ玉へ」と今生の暇乞いを述べ、島津勢を待ち受けて善戦したが、討ち死にしたという。

その夜は米良の松八重(まつばえ:西都市子八重の内)に野宿し、12日は米良の尾八重(西都市尾八重)に野宿した。

南郷村へ

13日は南郷村の落ヶ谷に着いたが、泊まるところがなく、ある一軒の空き家に泊まり、14日は神門村の俣江(またえ)ノ原(南郷村)に着いて那須右近将監祐貞の家に泊まって久しぶりで暖かい食事に有り付き、翌15日も那須祐貞の好意で滞在し、16日コムギの越の難路を越え、西郷村中八重に泊まったが、宿泊所はわからない。おそらく庄屋宅であったろうとされている。

諸塚村へ

明けて17日、中八重を下って耳川を渡り、諸塚村の塚原にたどり着いた。当時塚原付近を支配していた塚原弾正宅に鞋(わらじ)をぬいだ。塚原弾正は本名綾弾正(あやのだんじょう)といい、その屋敷は今の早川克彦氏宅東側の池の付近といわれている。

綾弾正の手厚いもてなしを受けて一行は18日もここに泊めてもらって、塚原に2日もいたのである。翌19日は塚原を出て家代を右に見ながら柳原川を渡り、坂を登って谷一つ隔てた黒葛原(つづらのはる)の右京という者の家に泊まった。この日はわずかに4kmくらいしか歩いていないが、おそらく綾弾正の家を午後出発したものであろう。今の若本正氏宅付近といわれている。

明けて20日、黒葛原を出発した一行は川の口を通って上長川(かみなごう)に出、ようやく立岩に着き、ここの有志立岩帯刀(たてわき)の家に泊まった。勿論立岩という名字であったかは判っていないが、帯刀という武士のような名前から察すると、名字は無いが、立岩の大将なので立岩帯刀と名乗っていたかもしれないということである。

ここも気持ちよく接待してくれたと思えるのは一行が21日まで二晩宿泊しているからである。ここに二泊したのは、これから山を越えて岩井川に出、ここから三田井に出るか、諸塚山を越して向山に出るか調査したのかもしれない。何しろ三田井には高千穂領主三田井氏がいるが、伊藤氏の全盛時代には伊藤氏の幕下(ばっか)であったが、もしも島津氏に通じていれば一行は皆殺しである。慎重に情勢を探ったものと思われる。

向山へ

結局向山に出てみようということで、諸塚山の急坂を屋根伝いに慣れぬ山道にあえぎながら、漸く向山の狩底(高千穂町大字向山)に着いた。狩底は山間の尾峰川沿いの戸数わずかに2.3軒しかない村である。これから2里(8km)も行かずに、三田井氏の本城仲山城がある。三田井氏が無事に通してくれる保障は何処にも無い。結局狩底の民家にごろ寝した。

三ヶ所村へ

翌23日狩底から秋元に出、笹ノ峠を越して、三ヶ所村の内ノ口(五ヶ瀬町大字三ヶ所)に出た。ここは昔から三田井氏の足軽が何人もいる村で、おそらく足軽村に泊まったものとおもわれるが、宿泊した家の記録は無い。

桑ノ内村へ

24日内ノ口を出た一行は宮ノ原から室野に出、そこから城山越えという樺木岳城(かばきだけ)の麓を通って、桑ノ内村に出て一泊した。桑ノ内の何処に泊まったか明らかではない。

河内へ

明けて25日、桑ノ内を出発した一行は谷を下りて波帰ノ瀬に下り、五ケ瀬川を渡った。この頃は橋は無く、渡し舟であったろう。そして漸く日向国最北端の村河内村に着き、ここで土地の豪族小崎将監の家に落ち着いた。この屋敷跡と子孫は最近まで河内にあったが、現在は他市に転出しているという。

豊後へ

思えば佐土原出発以来、17日間に及ぶ長い旅で、しかも追撃兵に追われそれを防いで戦死した者、途中で落人狩りの盗賊に襲われて死亡した者、歩けぬようになって自害した者、食料が無くて病気になった者もあり、河内に着いたときは元気なものは何人もなかったという。

義祐はこれから峠を越えれば、もう大友氏の豊後である。ここで詳しい手紙を書いて家来に持たせ、大友宗麟に助けを求め、返事の来るまで河内で待つことにした。日数はどんどん経って、とうとうここで天正6年の正月を迎えたが、まだ何たる返事もなく、待つこと13日、天正6年正月七日、漸く大友宗麟の迎えの兵が来た。義祐父子は手を取り合って喜び合い、五ヶ所を通って大野郡野津院寺小路村の光明寺に案内され、そこで野津院300町を大友氏から賜った。 日向を占領している島津氏に対抗するためには、旧日向領主伊藤氏を見方にする事は大友氏に有利であるからである。

諸塚村史

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