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伊藤義祐一行の豊後落ち(1)

木崎原合戦前夜

永禄11年(1568)伊藤義祐(よしすけ)の軍は、島津忠親(ただちか)の守る飫肥城を攻め、同年飫肥南郷の地を伊藤氏に割くことで和議が成立した。

ここで伊藤氏にとっては、いわゆる「伊藤48城」の最大版図が形成されたのである。また伊藤氏にとっては、山東(さんとう)一円が手中に帰したので、西南境真幸院(まさきいん)の奪取に全力を挙げることになった。真幸院の領主北原兼守は、義祐にとっては娘麻生の婿であるが、その死後は領内四分五裂の状況で、島津氏、相良氏ともに争奪の地となり、伊藤氏は三之山を(三つ山:小林市)を手中に入れ、ここに拠って進出を狙った。

一方加久藤城(かくとう)・飯野城(共にえびの市)は島津兵庫守義弘の拠るところとなっており、それぞれ三之山城と飯野城に拠って相対していた。永禄11年8月、伊藤氏は大軍を三之山に集めて、飯野城を伺おうとして飯野桶ヶ平(おけがひら)に陣したが、島津義弘軍も対峙したままでやがて引き揚げた。当時島津方では「伊藤めが真幸の陣は桶平に、飯野(飯)ほしさに飫肥(帯)のゆるさよ」と揶揄したという。

伊藤軍加久藤城目指して出発

元亀二年(1571)には、数度の小競り合いがあり、翌3年5月、薩摩の島津義弘を駆逐するため、自ら3千の兵を率いて佐土原を出発した。

加久藤城には義弘夫人がおり、島津の武将川上忠智が警備していたが、この城は中古以来土地の北原氏の支城であったものを、島津氏が北原氏を亡ぼして奪った城である。大将島津義弘は飯野城にいたが、まず護衛兵の少ない島津軍後方の加久藤城を落とせば、飯野の援軍に来る事も無く、飯野城の防衛が弱体化すると判断した伊藤義祐は、小林で兵を整え、5月3日の夜、小林を出発、途中、伊藤祐安を飯野城の押さえとして妙見の尾に陣取らせ、飯野を避けて川内川の南を迂回して、上江村を通り、夜中に加久藤城に押し寄せた。

加久藤城は本丸の外に鎌掛口(かまけぐち)という搦め手口があり、ここは島津の一族の樺山常陸坊常慶親子の館があったが、夜間のこととて、伊藤軍はここを本丸と誤って激しく攻め立てた。

親子三人は大勢の兵がいると見せかけるため、「者共出合え〜、続け〜」と呼ばわりながら防戦に努めて遂には討ち死にした。地形に不案内の上に闇の中の戦いなので、伊藤軍の攻撃も思うように進まず、この間に不意を疲れた城中からも、馳せ集まった城兵が激しく防ぎ戦い、やがて夜が明けてやっと城を占領した伊藤軍は、ひとまず池島方面に引き上げた。

勝ちに乗って島津軍をあなどり軍規を乱したので、それぞれ点検を怠り無く備えを堅くして退けと制するが、大方が若い大将であったので下知(げち)に従わず、時節は夏五月の事でもあり、暑さは厳しく、ついには皆鎧を脱いで飯野の池島川に飛び込んで水浴びを始めた。 敵を侮っているとしか言いようが無く、義弘軍から出された斥候が見逃すはずは無かった。。

一方島津義弘は飯野城で明け方に加久藤城の方でおびただしい火が見えたという報告を受けた。さては伊藤勢の夜襲に違いないと、情勢を察した島津義弘は直ちに兵をまとめ、まず加久藤城を救おうと加久藤の背後、遠見塚というところまで行くと、伊藤勢の様子を斥候より受け、「今や好機」道を転じて木崎原の向こうの川瀬を渡っていた伊藤勢に、上流から打ちかかった。

討ち死に相次ぎ敗退

伊藤方の諸大将は、浮き足立たずに勝負しようと反撃に出るが、にわかの事であり、体制を立て直す余裕はなく、島津軍に切りたてられ、たちまち250人の武士が討ち取られた。伊藤加賀守・伊藤修理進らは兵をまとめて退くが、だれだれが討ち死にしたという急報が続くので、また馳せ参じて戦い、死に急ぐものが相次いだ。

なかでも子息源四郎討ち死にの報に、総軍集めていた加賀守までが、島津義久と槍を合わせようと取って返し、義弘めざして斬り込んだ。この時家来の持原甚右衛門尉は加賀守の馬の口にすがって、「是非退かせ給え」と頼んだが、聞き入れられず、加賀守が討ち死にすると、持原も後を追い討ち死にした。

この戦いで伊藤方は奉行や各外城(とじょう)の地頭等250人、それぞれの被官衆96人、伊藤氏一門の大将5人までも失う事になった。

この戦いの後、伊東方では周辺外城の番手を厚くしたが、天正3年(1575)には、若輩36人が徒党を組み放浪するなど、家臣団に乱れが生じ、天正4年には、高原(たかはる)地頭福永平右衛門の離反から三之山・須木・野久尾などを失い、伊藤家は衰退の一途をたどり、ついには翌5年日向を追われ、豊後の大友氏を頼って落ちてゆく事になったのである。伊藤軍にとって「一敗地にまみれる」戦いであったといえよう。

しかし伊藤勢が皆腰抜けであったわけではない。島津勢は伊藤勢の十分の一にも満たない兵力である。大将島津義弘も何度と無く伊藤勢に取り巻かれたが、軍神、魔利支天(まりしてん)といわれた義弘は不思議と武運に恵まれ、九死に一生を得ている。しかし、伊藤勢はここで名だたる武将の大半を討たれ、四百数十名を失った伊藤義祐は残兵をまとめて佐土原に引き上げた。俗にいう「木崎原の合戦」である。 後年島津氏はこの池島川のほとり(太刀洗い川という)川跡付近に首塚を建て、敵味方の戦没者を弔ったといい、今も「首塚・元亀三年五月四日」と書いた碑がある。

宮崎の風土記・諸塚村史
 

都於郡城址(伊藤氏の本城)
 

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