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日向御前

日向御前というのは、国姫といって、徳川家康の曾孫にあたる方です。すなわち家康の長男岡崎三郎信康の娘が本多忠政と結婚して、忠政の娘として生まれたのが日向御前ですから、長男の孫、即ち曾孫にあたるわけです。岡崎三郎信康は家康が最もかわいがった子でもありましたが、若いとき死んだ人でもあります。織田信長のために切腹させれるのです。日向御前はその孫娘で顔が祖父の信康に生き写しでした。それで家康はいっそうこの姫がかわいかったのでしょう。駿河の自分の傍において養育したのです。そして堀越後守忠俊といったん結婚しましたが、慶長15年に忠俊は国の政治が悪く、国を取り上げられ、奥州の磐木平に流されて切腹を命じられたので、駿河城へ帰ってこられました。時に姫は14歳でした。この頃有馬直純は駿河の城に小姓として勤めていましたが、各大名の子で小姓になっている人が多かったので、家康は伊志井という老女に命じて、姫の夫となる資格者を選ばせたのです。この老女が有馬直純を推したので、翌慶長16年に駿河の城内で結婚式があげられたのです。有馬氏は肥前島原の城主でありましたからが、父の有馬晴信はヤソ教を信じていまして、徳川氏がキリスト教を禁止しても聞かなかったので、慶長17年に切腹を命じられ、直純が後を継ぎました。慶長18年には日向延岡の城主高橋元種が城地を取り上げられたので、直純はその後に移ってきて、日向御前のお化粧料として1万3千石の加増になりましたが、それでも足りず、直純は藩の出入り口に関所を儲け、関税を取って姫の化粧料に当てたのです。この姫は非常な美人で「容貌端麗にして技撃に通じ、剛毅にして起居動静真に丈夫の如し」と書いていますから、木曾義仲の夫人巴御前のように、美しいばかりでなく体も大きく力も強い、男勝りの方であったと思われます。この姫は大変な仏教の信者で、キリスト教徒の多い島原に、播随意(ばんずい)上人を連れて行って仏教を広めたり、キリスト教徒であった夫直純を仏教に改宗させたのもこの姫の力であった。といわれています。また延岡の愛宕山は昔は女人禁制の山でしたが、姫は「男が登ってよい山に女が登れぬというほうは無い。私が登ってみせる」と言って登ったと伝えられ、延岡では男勝りのおてんば娘を日向御前といいます。徳川幕府の重臣たちに日向御前と呼ばれたほどの女性でありますから、当時の日向の代表的な女性であったようです。慶安2年の2月、江戸麻布の藩邸で53歳で亡くなられましたが、芳名を栄寿院と申されました。

日向ものしり帳(石川恒太郎著)

本当寺・・・日向御前の墓といわれるものや、尊崇していた鬼子母神が祀ってあるお寺です。

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