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百万円道路

百万円道路 耳川沿いの大規模県道の開発は、周辺地域住民の念願であり、県も幾度と無く計画したが、予算上の都合から困難と判断され、破棄されてきた。

大正7年に、耳川の水利使用を出願して、同9年に許可を得た住友吉左衛門は、耳川筋の水利使用権を独占し、大正15年に水利使用計画の変更を出願、さきに許可を得ていた4地点の発電所計画は、初め舟筏と流木の通路を作る計画であったのを変更して、全河川を締め切って閉鎖することとし、その代わり軌道を設置したいと願い出た。

百万円道路 これに対し、古宇田晶知事は、多年の懸案を実現させる好機到来として、昭和2年にこの計画を変更させ、軌道ではなく、幅員2間(4m)の道路を開設させることとして、これを許可したのである。 このようにして、住友会社は西郷村に属する古川・笹陰間2880間余の区間から工事に着手することになるのであるが、これが県道椎葉細島港線(現国道327号線)の始まりであった。

百万円道路 ところが住友においては、この第一工区の工事を自ら行った後、以後の工事は自らこれを施工する代わりに必要な経費を県に納付するから、県において工事を行ってもらいたいと申し出た。そこで当時の山岡国利知事は、同3年10月31日、住友と覚書を交換して、県で工事を施工することとし、その経費として総額100万円を住友に納付させることにした。

百万円道路 これにより、この道路が俗に「百万円道路」と称されたのである。工事は昭和3年から着工し、昭和7年には椎葉村の那須橋、昭和8年には上椎葉まで全線47.5kmが完成した。 もちろん住友家はこれより先の大正8年、椎葉村に約1万ヘクタールの造林を手がけており、林産物の搬出と、発電所建設資材の輸送のためにも、道路建設の必要性に迫られていたわけであるが、それにしても当時の百万円は現在では数百億円を越える金額であったろうと推察される。 この道路に架設された橋は全部が永久橋で当時の山間地道路としては、全国に誇るべきものがある。

諸塚村史


鶴富屋敷・・・椎葉村の由緒ある屋敷ですが、そこに至る道筋には、未だ旧態依然とした道路が残されています。

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