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藤江監物事件

岩熊井堰 延岡藩家老の藤江監物は、出北地方(延岡駅と南延岡駅の間の海岸側の地方)は、平地で付近を五ヶ瀬川が流れていながら、その水を利用出来ないので、この五ヶ瀬川の上流に井堰(いせき)を築いて、そこから用水路を掘って水を引き、出北地方の水田化を考え、牧野公の許可を得て、貝の畑と下三輪の間の岩熊に井堰を造って、ここから出北に用水を掘る工事を始めた。しかしそれには莫大な経費がかかり、相当な藩費を支出しなければならなかった。

同職の家老級の武士の中に、藤江監物の手腕を妬む者がいて、藩主貞通に、監物は藩費を浪費して藩の経済を破綻させながら、自分や家族は栄耀栄華していると讒言(ざんげん)した。若い貞通はそれを信じて、享保16(1731)年3月7日、監物とその子多治見、図書、養子にやっている川崎右膳の3人の子供まで捕らえさせ、七折村の船の尾の代官所の近くに牢屋を作らせ、4人をそれに入れて、高千穂の小侍を各村から招集して、6人づつ10日間交代で監視させた。

この牢屋の建物は付近の新しい楠木を伐って造らせたといい、樟脳(しょうのう)を採る木であるが、そのガスのためか、僅か4ヶ月で図書(25歳)は獄死し、それに怒った藤江監物も断食して、それから25日目に獄中で憤死した。

一方藤江監物の片腕として、井堰工事の現場を担当していた郡奉行の江尻喜多右衛門は、艱難(かんなん)を乗り切って、それから3年後に遂に水路延長3里(12km)の出北用水を完成し、岩熊井堰が開通したのである。

その年、藤江監物の公金費消は無実であった事が判明し、監物の子多治見と右膳は許されて出牢し、改めて次男多治見は新知行100石、三男川崎右膳には50石与えられ、宮崎陣屋詰めに採用された。

この監物父子のお陰で開田を見た出北地区の農民たちは、藤江父子の恩義を偲び、260年後の今日も尚、船の尾に残る藤江監物の墓に毎年団体で参拝してその徳を慕っている。藤江監物は大正13年生前の功により、従五位を追贈された。

諸塚村史


■藤江監物牢跡と墓
・・・船の尾の代官所近くに牢があった場所と親子二基の墓があります。
■牧野氏
・・・主君であった牧野氏です。恨んだことでしょうね。馬鹿殿?。
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