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諏訪の分け口の人柱伝説

延岡がまだ県(県)と呼ばれ、領主土持氏が井上城を築いた頃のこと。城の北端から五ケ瀬川が分岐し愛宕山北麓を流れて海に注いでいた。この分岐点を堰き止めれば武士屋敷との交通も便利になり、多数の水田も得られるので、度々工事にかかったが、激流のためその都度失敗に終わった。かくて誰言うとも無く人柱を立てる話になり、誰一人犠牲になろうという人はいないので抽選ということになり、結果庄屋の一人娘があたって村は湧き返る騒ぎになり、庄屋の家では悲嘆の涙にくれていた。このことを伝え聞いた城主の姫君は、自ら人柱になることを父に願い出た。「私はみるも恥ずかしい不具の身で、縁組などは思いも寄りません。今籤にに当たっているのは庄屋の一人娘で美人だと申します。それを人柱にするには咲きかけた花をむしりとる気持ちがいたします。生きて甲斐のない私をその娘に代えてくだされば、村のためにもなり庄屋一家の嘆きを救うことにもなります。」姫の思い切っての切な願いをば城主も拒むことが出来なかった。遂に涙を呑んで聞き遂げられた。かくて人柱は姫と定められ、日を選んで決行された。姫の真心が天に通じたのかさすがの激流も難なく堰き止められた。そして今の「諏訪の分け口」というのがこの地点である。姫は痛ましくけなげな犠牲となった。人々は姫を仰いで神に祀ることにした。若宮八幡神社の境内にある四社の宮がそれであるといわれている。庄屋の家で喜んだのはいうまでもない。村人たちは生前姫の好物であった「むろ鯵」を献ずることとし、毎年季節になると最初の漁獲中から一荷を捧げて報恩の意を表すという。

九州の駅路は、これを西海道(さいかいどう)といいました。この西海道は、九州における政府の出張所であった大宰府から、東廻りの東路(とうろ)と廻りの西路(さいろ)に分けられていました。この駅路は国府と国府を結んだもので、宮崎県の駅路は、西海道東路の一部だったわけです。つまりこの東路は、筑前から豊前、豊後の国府を経て、日向の国に入り、国内の駅を経由して、国府の置かれている三宅に至ったものと思われます。日向国内の駅名は、平安時代に書かれた延喜式″に現われています。それによりますと、「日向国駅馬。長井、川辺、苅田、美禰、去飛、児湯、当磨、石田……各五疋。 同伝馬。。長井、川辺、美禰、去飛、児湯、各五疋。」となっています。

三須神社

引用:日向の伝説(鈴木健一郎)

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