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日平銅山と内藤家の隆盛

日平銅山(東臼杵郡北方町日平) 日平銅山は、宮崎県では槇峰銅山ととともに、最も重要な鉱山です。この鉱山は相当に古い鉱山 であるが、いつから掘られたか明らかではありません。延岡藩の内藤氏の時代には、宝暦4年( 1754)から宝暦9年までは延岡の町人の松岡屋弥五郎という人が経営し、宝暦9年から明和 元年まで、やはり延岡の町人の大阪屋定右衛門と、その子喜三郎という人が経営し、明和元年か ら5ヶ年間は御手山として藩の経営になりました。その後、天明9年までの21年間は誰が経営 したか不明ですが、天明9年から寛政10年までは大阪屋仁兵衛の経営となり、さらに寛政10 年からは、佐藤善太郎、甲斐久三郎というような人の経営に移り、さらにまた藩の御手山になり ましたが、慶応年間にはすでに日平銅山役所というものが設けられていました。しかし日平銅山 の真価は明治になって現われたのでした。明治初年の支族授産の時に、延岡藩の士族たちは、こ の銅山を経営して一攫千金の夢を抱いたのですが、実際にやってみると湧き水が多くて、この水 を汲みださなければ掘ることは出来ないということで、まったく失敗に終わったのでした。その ころ藩主の内藤氏も「金は内藤」といわれたとおり、東京での華族のつきあいもま まならぬほどの貧乏でしたが、郷里に帰り産業を興すという名目で郷里延岡に帰り、これまた鉱 山の経営で一攫千金を夢見るほかは無かったのです。ところが幸いに、日平銅山総裁となった旧 家老の原小太郎時行が偉かったのです。この人は旧式では駄目だということで、東京に行って新 進工学士の笹原鷲太郎という青年技術家を雇い入れ、彼に思う存分の仕事をさせました。笹原技 師長は五ケ瀬川に発電所を設けて、電力で湧き水を汲みだす事にしたので、鉱山の効率は一気に 上がり、明治時代の後期から大正時代の初めにかけては、日本有数の銅山になりました。こうし て内藤家今日の隆盛の基礎が築かれたのですが、鉱山は後に三菱会社に譲渡されました。

■槇峰鉱山へ・・・対岸の槇峰鉱山は日平鉱山と並んで、宮崎県では二大鉱山の一つであった。

日向物知り帳(石川恒太郎)

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