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日向国の古代駅

古代道 律令に定められた交通制度として駅制(うまやのせい)があります。これが全国的に実施されたのは奈良時代からといわれています。これは主として役人と役所のために中央と地方を結びつけておくものであり、地方の税として稲を都に運搬するものでした。この時代の税は官稲(かんとう)といって、稲で納められました。

九州の駅路は、これを西海道(さいかいどう)といいました。この西海道は、九州における政府の出張所であった大宰府から、東廻りの東路(とうろ)と廻りの西路(さいろ)に分けられていました。この駅路は国府と国府を結んだもので、宮崎県の駅路は、西海道東路の一部だったわけです。つまりこの東路は、筑前から豊前、豊後の国府を経て、日向の国に入り、国内の駅を経由して、国府の置かれている三宅に至ったものと思われます。日向国内の駅名は、平安時代に書かれた延喜式″に現われています。それによりますと、「日向国駅馬。長井、川辺、苅田、美禰、去飛、児湯、当磨、石田……各五疋。 同伝馬。。長井、川辺、美禰、去飛、児湯、各五疋。」となっています。

 これらの駅名の中には、今のどこにあたるかわからないものもありますが、 一応次のような地名が該当するようです。 ・長井:北川町の長井 ・川辺(かわのべ):延岡市大貫町川辺 ・苅田(かりた):門河の草書を誤写したらしい ・美禰(みね)も美彌(みみ)の誤りだとおもわれます。 ・去飛(こひ)も都濃の草書を誤写したものでしょう。 ・児湯は今の高鍋で、景行記の子湯県(児湯の縣)にあたります。

そのまま三宅の日向国府に出て、これから南北二道ににわかれ、 南は当磨(たじま。田島=佐土原町)から石田、救麻(宮崎市付近)を経て、水俣(山之口町付近)、島津(都城)を通り、大隈国の国府である国分にいたりま

長井から日向国府間では、大体四里の間隔で駅がありました。そして長井、川辺、苅田、美禰、去飛、児湯の国府以北の駅には、駅馬五疋と伝馬(てんま)五疋が置かれ、その他の駅には駅馬だけでした。

駅馬:駅の費用で買うもので、必ずしも官馬ではありません。    右に挙げた駅では五疋となっていますが、多いところは20疋ぐらいいたようです。 伝馬:官馬でその管理には郡司(郡の役人)があたっていました。

駅はその費用をまかなうために、駅田を持ち、それを耕作する人々、及び官稲の運送にあたる駅子(えきご=人夫)を出さねばなりませんでしたから、40戸内外の(里)に匹敵するような駅戸を持っていました。その管理者を駅長といったそうです。もちろんこれは郷とは違った行政区画になっていました。駅の地域は駅宇(えきう)と呼ばれる駅長以下の職員の住宅や事務を執る家、院倉という倉庫(これには駅田から収穫した稲や運送用の稲も一時入れておくことがありました)そのほか、駅子の住宅、駅田などを含みましたから、かなり広いものであったようです。

日向市の歴史

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