Back Topへ

島津・秀吉の高城の戦い

天正15年(1587)の「高城合戦」は全国を支配しようという豊臣秀吉と九州制覇を目指していた島津氏との合戦であった。豊臣秀吉は、織田信長の急逝後、5年間で全国をほぼ平定し、九州平定に目を向けていた。一方、島津氏は大友氏・龍造氏を破り、領土を拡大していた。天正14年3月、島津氏に圧迫されていた大友宗麟は、大阪の秀吉に自ら見え、救援を請うた。秀吉は島津義久に対して使者を遣わした。しかし義久は聞き入れなかった。そして島津義久は豊後攻めを企てた。このために、肥後口より侵入する島津義弘の部隊、日向から進攻する家久の部隊、義久の三つの部隊を編成した。本隊は日向の国臼杵郡富高村塩見に陣を置いた。さらに義久は、島津義弘・家久の弟二人と共に、北郷一雲、伊集院らを指揮して、仙石秀久の指揮する長曽我部・十河・大友の連合軍を「戸次(へつぎ)河畔」にて撃破した。豊臣秀吉は、島津軍が豊後へ侵入する前に先陣として、仙石秀久の指揮する連合軍を豊後に上陸させていたのである。勢いに乗った島津軍は、天正14年12月中旬には豊後府内を占領した。だが島津軍の攻撃はここまでであった。秀吉は島津氏を降伏させ九州を平定するために、出陣の手はずを容易周到に進めていたからである。秀吉は37カ国25万を動員し、肥後口と日向国に出陣し、2方面から島津氏を攻めることにした。日向口の総大将は弟の羽柴秀長(大和の国郡山城主)、肥後の口の総大将は豊臣秀吉であった。(秀吉は天正15年3月1日に大阪を出発している)天正15年2月、命を受けた羽柴秀長は3月上旬に周防(山口県)に入り、さらに九州へ入り、豊後へと進んだ。羽柴秀長の先鋒を承ったのは伊藤義弘の息子伊藤祐兵であったという。伊藤氏の豊後落ちより約10年を経ていた。羽柴秀長に従う武将は、「毛利輝元、小早川隆景、吉川元春、黒田長政、蜂須賀家政、藤堂高虎、加藤嘉銘、脇坂安治、宇喜田秀家、大友義統(宗麟の子息)等であった。そうそうたる戦国武将、武人であった。別に長曽我部元親は、手兵5千人を舟に乗せ、兵糧を積み、豊後の海岸に待機していた。一方豊後府内にいた島津義弘の軍は、日向佐土原に退却した。羽柴軍は、島津方の土持久綱の縣城(後延岡城)を囲んだ。三月末日、土持久綱は防戦ならず開城して佐土原に入った。4月6日羽柴軍は、耳川を渡り、南進し、島津方の高城城を囲んだ。島津氏は都於郡にあって、日向、大隈、薩摩三国の兵を集めていた。その間しきりに高城城主山田新介有信より援軍の必要を報じて来た。4月17日の夜、島津義久は、島津義弘、家久と共に選り抜いた精兵を率いて、根白坂の陣営を攻撃した。「根白坂の夜襲」である。勇猛果敢な切込みで知られる島津勢は、この一戦に決死の覚悟で向かった。その攻撃により、猛烈な戦いが幾度も繰り返されたという。しかし根白坂の砦は空堀、塀杭を堅固に巡らし、用意に乗り越えることは出来なかった。その上、秀長軍の著しい兵数・鉄砲の数量に圧倒された。かくして島津軍は死者三百余人、負傷者数百人に及び、遂に付近の村々に火を放ち、薩摩へと逃げ去った。島津義久は、羽柴秀長に降伏を申し入れ、4月21日に秀吉の命により承諾されたという。5月8日、島津義久は、薩摩川内の泰平寺に陣を置いていた秀吉に見えた。島津義久は、伊集院の寺で剃髪し、名を「竜伯」と改めていた。義久は秀吉を前に白州に座し平伏した。このとき秀吉51歳、義久55歳であった。
 

高城・・・秀吉軍から取り囲まれた山城です。

根白坂の戦い・・・秀吉の大軍に島津軍が夜襲をかけた場所です。。

高鍋・木城串間紀行(田浦チサ子著)

Copyright©2008 nAn All rights reserved.