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賀来飛霞

賀来飛霞記念碑 「高千穂採薬記」の著者、賀来飛霞睦之は豊後国西国東郡高田に文化13年に生まれ、先考賀来千里は小野欄山に師事し、本草を修め医を業とした。また異母兄の佐之はシーボルトに就いて医術を学び、豊前国宇佐郡佐田村に住居した。

賀来飛霞は二歳で父を喪し、杵築藩の母の生家鈴木氏の家に育ち、日出藩の帆足万里に師事し、十九歳の時佐田に帰って本草を修め医術を研究した。25歳の時、杵築藩大夫浅井氏に従って江戸に赴き、更に奥羽、北陸、伊豆七島を漫遊すること3年、この間植物を採集し、兼ねて画法を学び、植物を採集してその姿を写生することを続けた。その数は千数百に及んだという。後京都の山人亡洋の門に入って本草学を習得した。天保15年、日向、大隈に至って、霧島山にも登り、この時水月小相を訪ねて寄宿したこともあった。

弘化元年異母兄佐之が、島原に移ってからその家業を継ぎ、翌2年には延岡藩に招かれて、藩内の薬草採取を行った。「高千穂採薬記」二巻はその時の日記で、範囲は東西臼杵郡の全域に及んでいる。当時延岡藩直営の薬草園が南方舞野原にあり、採薬係りは産物方に属し、奉行は赤坂氏で、賀来飛霞には常に下役が従ってその採集と調査を助け、延岡の医者達は賀来飛霞に教示を受けた。飛霞にはこの書のほかに「日向採薬記」など多くの著書がある。

「高千穂採薬記」には、その一部北方村調査の頁で「当時燈火用として松脂を燃やし、油は神前や仏前に捧げるに過ぎなかったこと、宿舎でノミが多かったこと等等」当時の農村の様子が細かく書かれている。

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