Back Topへ

若山牧水

若山牧水 若山牧水は、明治18年(1885)、宮崎県東臼杵郡東郷村(現:美郷町東郷区)坪谷(つぼや)に生まれた。父立蔵、母マキ、本名は繁(しげる)といった。明治32年創設された県立延岡中学校(現延岡高校)から明治37年、早稲田大学に入学。北原白秋等と交友する。短歌は尾上柴舟(おのえさいしゅう)に師事、卒業と同時に第一歌集「海の声」を出版した。明治43年に第二歌集「独り歌える」ついで第三歌集「別離」を出版し、その叙情的歌によって歌壇の注目を集めた。

幾山河こえさりゆかばさびしさの      はてなむ国ぞ今日も旅行く

白鳥はかなしからずや空の青      海の青にも染まずただよふ

歌壇的には有名になるが、経済的・精神的にも疲れ、その年(明治43年)の9月、さすらいの旅に出て、小諸(長野県小諸市)の友を訪ねた。

白玉の歯にしみとほる秋の世の      酒はしづかに飲むべかりけり

若山牧水 明治45年4月、歌友石川啄木の最後を看取り、5月にはかねてから相愛であった太田喜志子と結婚したが、2ヵ月後、「チチキトク」の電報が来て、帰郷した。11月父が急逝し、親族会議が開かれ、このまま郷里にとどまるよう説得されたが、牧水は歌を選ぶか、郷里に残るかで悩んだ。この間の歌「死か現実か」「みなかみ」に収められているものは、初期の作品とは異なり、破綻を見せている歌もある。ただ故郷の山河や自分の近親者をうたった優れた短歌も見られる。「亡き父の霊前に捧ぐ」と記す「みなかみ」には牧水の故郷を思う気持ちが良く出ている。

納戸の隅に折から一丁の大鎌あり      汝の意思をまぐるなといふがごとくに

歌ひと筋に生きて

翌大正2年(1913)老母の許しを得て上京した。いよいよ歌ひと筋に生きる決心をしたのである。牧水は旅を好み、酒を愛した歌人といわれるが、故郷を愛し、母への思いを濃くした歌人ともいえる。18歳の時に号を「牧水」にしたといわれるが、その「牧」は母マキから取り、「水」は故郷の美しい坪谷川からのイメージであろう。とりわけ父の死後、牧水は母を招いたり、故郷近くを旅するごとに足を運んで母と生活を共にしている。

春は来ぬ老いにし父の御ひとみに     白ううつらむ山桜の花

老いふけし父の友だちうちつどひ       酒汲む冬の窓の夕陽(せきよう)

日向の国むら立つ山のひと山に      住む母恋し秋晴れの日や

春あさき田じりに出でて野芹つむ      母のこころに休(やすら)ひのあれ

昭和3年(1928)、第15歌集「黒松」を整理した後、9月17日、沼津市(静岡県)で没した。享年43歳。全国には120基近くの牧水の歌碑がある。近代の歌人でこれほど敬愛された歌人は少ないといわれるのも当然といえよう。

周辺の牧水歌碑

生誕百年の昭和60年、牧水が編集した「創作」同人の大会をはじめ、県内各地で牧水を偲び顕彰した大会がい開かれ、新しく歌碑が延岡・宮崎などに建った。

◇牧水生家裏山の歌碑:宮崎県東諸塚郡美郷町東郷区

◇切通峠の歌碑の歌碑:宮崎県日向市塩見切通

◇権現崎公園の歌碑:日向市大字幸脇字千鳥

◇日向岬の歌碑:日向市日向岬米の山山頂駐車場

◇高千穂峡の歌碑:西臼杵郡高千穂町三田井高千穂峡

啄木と並ぶ国民的歌人牧水は、旅と酒を愛し、故郷と背景にある父母や人々を慕った。やや感傷性を含んだ歌でもあるが、それは近代的で、人間を凝視する目の深さ、温かさがあり、感覚的でさえあった。それらがミックスされた点において多くのファンが生まれ、長く今日まで歌い継がれているのであろう。

若山牧水 生家に近く、長男旅人(たびと)が設計した牧水記念館があり、牧水に関する資料を展示している。また生家前には坪谷川を挟んで、広大な牧水公園が造園され、四季折々の花々であふれている。公園の展望台からは牧水の生家・裏山・坪谷川がよく見える。

宮崎県風土記

Copyright©2008 nAn All rights reserved.