Back Topへ

日向新しき村

村

新しき村は大正七年(1918)彫刻家ロダンの生誕の日である11月14日に開村した。この村は 明治の末期から大正にかけて文壇に活躍した武者小路実篤が、文学の世界の理想を現実に生かそうと、建設したものであった。尾鈴の山を背景に、小丸川の清流を前に控えた大自然のなかにつくられた理想郷に、多数の青年が共鳴し、ある者は大学を中退し、ある者は事業を投げ捨ててこの村に集まった。住民たちは山小屋式の住居に住み、農業と読書に励みながら、新しい社会の実現にかかった。しかし、営農収入は少なく、実篤の原稿収入まで投入しても、財政的に行き詰まりを打開することは出来なかった。また、理想と現実の隔たりの大きさや、社会的風潮の推移なども重なり、ひと時は50人もいた住民達も、一人二人と脱落していった。 そこで実篤は意を決して帰京し、1939(昭和14)年、第二の新しき村を埼玉県入間郡毛呂山(もろやま)町に建設したので、住民も第二の理想郷へと移った。


当時の村の様子を、宮崎日日新聞は「新しき村50ねん」という特集に記している。 「古老の語る当時の武者小路は。長身痩躯、筒袖の着流しだが、いつも天を刺すように首を直立させていた。房子は絹仕立ての着物で、朝夕近くの小丸川に降り川原を散策する姿は「はきだめにツル」だった。だが、滞在が長引き、高鍋や石河内へ行くことが多くなると、自分で髪の結えない房子は長い髪をクルクルと後ろで無造作に束ね、ワラジ履きの生活になった。男もほとんどが長髪。その上生活、食事の変化や疲労から、揃って痩せ始め、目ばかり異様に光る一行は別世界の人と思われた。いまここに東京あたりからサイケ調のヒッピー族を迎えても、ショッキングな点では当時のほうがまさるだろう。警戒心だけでなく、冷笑も加わった。農業にはずぶの素人の集まりだけに、馬耕も、くわ取り、乗り手、それに鍬を扱うものと三人がかりの大騒動だった。土質を考えるどころか、肥料さえやれば……と、山ほどかけて、そのために芽が出なかったり枯れてしまう失敗が続いた。ご飯を炊けば、米が膨れることも知らない。余れば牛馬の餌に与えた。それも月日がたち、農業生活が軌道に乗り始めると、八時間労働のあとは各人が美術、文学、音楽に楽しむ余裕が出た。それを見て土地の人々も感心した。(略) それにもまして、農業の専門書を取り寄せたり、専門家の村外会員の指導で優秀なクリ、梨、シイタケなどが作られるようになると、逆に「新しき村」から技術を教えてもらうようなこともあった。危険視、冷笑、驚嘆と「新しき村」の動きにつれて地元の人の見る目も複雑に変わったが、やはり「新しき村」は別世界であった。

民族探訪ふるさと365日(秋山榮雄著)

山と山とが讃嘆しあうように
星と星とが讃嘆しあうように
人間と人間が讃嘆しあいたいものだ

実篤は大正十五年一月に村を離れている。母の病気のこと、村の経済を安定させるために文学活動の専念すること。村の生活が肌に合わないこと。安子と夫婦でありながら妻であった房子と同じ村にいるという人間関係のこと。いろいろな理由が想像できようが、離村はある種のわがままである。

武者小路実篤は明治十八年、公家華族である父実世、母秋子の末子として生まれる 房子は明治二十五年、貴族院議員の竹尾茂と妾の間に生まれた 実篤と大正元年に結婚。 昭和51年二月安子はガンで逝去した。その二ヵ月後に実篤(91歳)も逝去した。


新しき村・・・武者小路実篤が理想郷を作ろうとした新しき村の跡です。

引用については、昔のメモ書きで忘れてしまい、記載していない方にはお詫びいたします。

Copyright©2008 nAn All rights reserved.