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朝日嶽城の攻防戦

  天正14年10月、予定より三ヶ月遅れで、島津軍は日向口と肥後口から、豊後の国へなだれこんだ。日向口の大将は島津家久で一万の群を率い、又肥後口は島津義弘を大将とする三万の大軍であった。家久の軍には、勿論土持次郎久綱の姿があった。次郎は五百の土持勢を率いて参陣していた。「ようやく、土持殿の宿願を果たせるときが来ましたな」と家久が言った。「はい。祖父殿と父上の墓前に、大友宗麟の首を供えることができるよう、精一杯戦います。」「うむ。その気持ちを忘れぬように名。」家久軍が豊日国境の梓峠を越えると間もなく、眼前に朝日嶽城が行く手を阻むように立ちはだかっていた。この城は4年前から、大友氏が対島津戦を想定して、新しく築いたもので、柴田紹安が城将であった。彼は城門を開けさせると、自ら手勢を率いて島津軍に突撃して行った。ところが、柴田紹安はあろうことか、そのまま島津軍に投降し、合流したのであった。これには敵味方共にあ然となった。特に城兵の受けた衝撃は計り知れない。まえもって内通するという事で、話がついていたのである。いわば予定の行動だったのだ。そうとは知らない城兵たちは、この事態に初めは怒ったり、慌てふためいたりしていたが、一万の大軍を前にしてはいかんともしがたく、逃げるように城から落ちていった。大友氏がこの時のために築き、もっとも頼みの綱としていた前衛の城は、こうして何の抵抗をすることもなく、島津軍に明け渡されたのであった。家久は、朝日嶽城を土持次郎久綱にあずけた。「わが軍の後方を固めるという大事な城だから、くれぐれも油断することなく守ってくれよ」「承知しました。必ずご期待に添うよう頑張ります」次郎は胸を張って答えた。家久軍の目標は、大友氏の本拠地、府内(大分市)である。その府内を攻略する三つの障害を取り除かなければならなかった。一つは府内を守る関門というべき鶴賀城、二つは隠居した大友宗麟のいる丹生島(にうじま)城。そして三つめが、縣の土持氏と国境を接する佐伯氏の栂牟礼(とがむれ)城である。この中で最も厄介な存在は栂牟礼城であった。家久軍が豊後の国の奥深くまで攻め入る場合、佐伯氏によって常に退路を断たれる恐れが強かったのである。そんな不安を解消するため、家久は20名からなる使者を栂牟礼城へ送って、降伏を勧告させた。島津軍の大友攻めに当たっては、朝日嶽城の柴田紹安にみられるように、事前に多くの城主たちの内通があった。彼らは皆三田井氏のように保身に走ったのである。だからこそ島津義久にしては珍しくズバッと決断できたのであった。家久も大友攻めが順調に進行していたこともあって、佐伯氏も柴田紹安のように旧領を安堵することですんなり降伏を受け入れるものだと思っていた。ところが栂牟礼城の若き城主佐伯惟定は、これを断固拒絶する代わりに、20名の使者を番匠川の川原に連れ出して、非情にも皆殺しにしたのだ。
日向戦国武将物語より。「夕刊ディリー」

朝日嶽城跡
 

「夕刊ディリー」
 

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