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延岡藩主有馬氏

有馬氏紋

高橋元種改易の後を受けて、慶長19年7月13日、有馬左衛門佐(すけ)直純が、肥前島原の日野江城から5万3000石で縣の城主に補せられて赴任してきた。元種が改易になった12月から、直純が赴任した7月までの間は、無領主で幕府の直轄領であったということになる。

有馬氏が縣に赴任して4ヶ月後に大阪冬の陣が起こり、有馬氏は幕府の命令で兵を引き連れて従軍するが、僅か一ヶ月で和議が成立したのですぐ帰国した。しかし、翌元和元年(1615)年4月には、和議が破れて再び大阪夏の陣が起こったので、今度も有馬氏は兵を率いて従軍するが、大阪城は落ち、豊臣秀頼母子は自刃したので豊臣氏は滅び、天下は完全に家康のものになった。有馬氏は帰国して暫らく落ち着いて藩の行政に手を染めることになった。

有馬氏は縣移住より400年も前から、肥前高来郡有馬村に移り、日野江城にいたのであるが、一時は八城21万石に及ぶ勢力を持ったこともある。戦国時代になると肥前の竜造寺隆信に侵され、日野江、原、島原の三城であったが、直純の父晴信は天主教をすすめたため、島原にキリスト教信者が増えてきた。

慶長17年3月、晴信は罪を得て切腹を命じられ、領地没収となったが、その子直純に改めて日野江城4万石を賜って、キリスト教徒を取り締まるように命じられていた。

しかし、縣の高橋氏が改易になったので、その後に1万3000石加増されて、有馬直純が縣に移ったわけであるが、家臣達は長年住み慣れた島原から離れることを喜ばず、殊にキリスト教信者は教会の無い日向に移るという者は一人も無かったという。

有馬直純は藩行政のために、宮崎と高千穂に代官を派遣して代官所を設けた。年代は明確でないが、元和年間の中ごろのようである。高千穂代官は延岡に近い船の尾に設け、船の尾の旧城主津隈太郎左衛門直次が有馬氏に臣従したので、津隈氏を初代代官に命じた。また各村の旧家の遺児を庄屋に取り立て、その下に弁指を置いて村役人にした。旧三田井氏の士分の者や、足軽で有馬氏に仕える者は相当おり、有馬氏直轄の武士以外の者は小侍と呼ばれた。小侍は一人3石貰っていた。これは大体は高橋氏の組織を継承したものと思われるが、有馬氏が初めて設けた施設に御番所がある。

御番所

番所というのは、諸国の大・小名が他国との物品の交流に課税するための税関である。有馬直純の奥方は、日向御前と呼ばれる徳川家康の孫娘であった。家康の嫡男信康の女子が本田忠政に嫁してできた子であるが、単に孫というだけでなく、家康が養女として一端引取り、堀秀政に嫁したが別れて、独り居たのを家康の口利きで直純は見所があるとして、直純に再婚させられた奥方であるので、将軍の娘である。普通の奥方で無いのでその生活費も相当要り、税収をはかるために御番所を設けて移出、移入両方の物品に税をかけたのである。これを日向御前の化粧料と言った。

御番所は有馬氏に隣接する、豊後、肥後、高鍋藩、佐土原藩などの国境に設けられた。有馬氏が設けた御番所は下記のとおりである。

・河内        (日向、肥後、豊後界高千穂町河内) ・飛瀬(とびせ)   (肥後界、五ヶ瀬町鞍岡、道の上) ・廻(めぐ)り淵   (肥後界、五ヶ瀬町三ヶ所廻淵) ・波帰瀬(はきせ)  (肥後界 五ヶ瀬町桑ノ内波帰) ・三本松       (豊後界 高千穂町上岩戸西ノ口) ・八戸        (豊後界 北川町八戸) ・笹戸        (高鍋領界 日向市) ・宮野浦       (豊後界 北浦町宮ノ浦) ・穂北        (米良界 西都市穂北) ・黒生野       (佐土原領界 西都市) ・下別府津口     (那河郡下別府宮崎市)

以上11ヶ所であるが、その内5ヶ所は西臼杵郡にある。後年は細島や五ヶ瀬川沿いの八峡(やかい)等にも設けられて船舶で物を運ぶのに課税された。

御番所と関所との違いは、通行人を取り締まるために設けられたのが関所であって、これは地方大名が勝手に設けることは出来ず、朝廷か幕府が設けたのが関所であり、その所在地の領主又は幕府から派遣された代官が関守責任者であった。

御番所も当然通行人の監視もしたが、薩摩藩は特にそれが厳しく、日向界の去川(さるかわ)、肥後界の出水(いずみ)の両番所の厳しかったことは有名で、出水では高山彦九朗、平野国臣など、何日も止められている。

関所を通るにも御番所を通るにも、通行人の身分を証明する往来手形が必要であった。手形は百姓はその村の庄屋、士分の者は主君、僧侶は末寺を取り締まる寺が発行した。

有馬直純の寛永8年、肥後の熊本城主加藤肥後守忠広とその子豊前守光広が、幕府に罪を得て、忠広は出羽へ、光広は飛騨へ配された。ところが忠広の家臣が八代城に立て籠もって反意を示したので、幕府は九州の島津、黒田、立花、鍋島、有馬の諸侯にこれを鎮圧のために出動を命じた。直純は家臣700人を率いて肥後に向かったが、加藤氏の遺臣たちが城を出て降参したのでそのまま引き上げた。

島原の乱

寛永14年(1637)10月23日、有馬氏の旧領島原で、キリスト教徒のいわゆる島原の乱が起きた。これは慶長19年頃から幕府のキリスト教弾圧が強くなり、今までキリスト教を奨励してきた有馬藩も、寛永9年になると領内のキリシタン改めを行っている。ついには島原のキリスト教徒が大友、小西等のキリシタン大名の遺臣等を加えて反乱を起こしたである。

この時代は有馬氏の後任の松倉勝家が島原城主で、島原城の築城のために空城となっている原城の石垣を運ばせたり、凶作続きであるにも関わらず、税の取立てを厳しくしたり、キリシタン信徒に過酷な取り扱いをしたので、肥後領の天草島の寺沢堅高(かたたか)領の農民が連絡をとって反抗した。12月上旬、幕府はこの鎮圧のために板倉重昌を島原に派遣したが、天草・島原の信徒は旧有馬氏の原の古城に立て籠もり、天草四郎時貞を盟主として深く団結した。これによって幕府はさらに老中松平定信を派遣した。定信は12万以上の大軍を召集して島原に集める。このため前の板倉重昌は総攻撃をかけて討死した。松平は度々攻撃をかけるがなかなか落ちず、遠巻きにして城内の食料弾薬の尽きるのを待って、寛永15年2月27日、8日総攻撃をかけて内通者一人を除いて全員を惨殺して、島原の乱は終わった。

この乱が起きたとき、有馬直純は江戸にいたが、島原は旧領のことにて、地理に詳しいからと従軍を願い出、急使を延岡の嫡子康純に馳せて、即刻出陣を命じるとともに、自分は小倉を経て島原に直行した。

命を受けた康純は正月下旬、延岡を出発して、諸塚の塚原神社に戦勝祈願、高千穂を通り、肥後に出、また直純と島原で一緒になって原城攻撃に参加した。この乱の攻撃軍の損害も大きく、討死1300、手負い1万9000と言われたが、有馬軍も戦死者58人、手負い308人の負傷者を出したが、高千穂からも足軽が大勢参加して、3人が討死している。

有馬康純の仏教政策

康純が城主として藩政を行った期間は45年間あるが、この期間は特筆すべき事項は無い。行政的に直純の代に始まった国境の御番所を整備し、組織を確立して、後世内藤氏に至るまでの行政組織がこの時代に型が出来たといってよい。

有馬氏は神仏を尊崇することに厚く、島原時代も多くの社寺を護持していたが、日向転勤にあたって、肥前高来に有った北岡山天神寺薬王院。葛城山台雲寺を延岡に移すと共に、日向御前は延岡に新たに二岸山白道寺(後年三福寺となる)を開基し、また日曜山高岳寺(今の月光山城陰寺の場所)の二ヶ寺も延岡に移し、さらに今山八幡宮・安賀多神社本庄八幡・愛宕社などを修復したり再建したりすると共に、従来からの領内の社寺に社領、寺領を寄付している。

有馬永純時代の百姓騒動(山陰一揆)

永純が領主になって2年後の元禄2年から天候異変が続き、二年間まったくの不作であった。にも関わらず郡代梶田十郎左衛門は、村々に下役を巡回させて、過酷な上納米を取り上げた。このため百姓は悲鳴をあげるが、ついに元禄3(1690)年9月19日、臼杵郡山陰村の百姓男女1500人が大挙して村を逃げ出すという事件が起きた。

■山陰百姓逃散事件とは

これに刺激されたのか、高千穂百姓の中にも逃散でもやろうというような気風が生まれ、税率の引き下げを哀願しようとする運動が起こり、山裏・岩戸・三田井・下野・上野・田原・河内・五ヶ所・七折の五ヶ瀬川より北9ヶ村の庄屋が協議して、藩に対して連名で、31ヶ条に及ぶ減税嘆願書を作成して藩に提出した。藩では慌てた。山陰騒動がまだ幕府の取調べ中の高千穂9ヶ村の嘆願書であるので、これが幕府に聞こえては具合が悪い。重役達は頭を痛めた。そのころ有馬藩は打ち続く不作で、藩自体の財政が破綻状態で、まだ税率を引き上げたいような時であったが、31ヶ条の内18ヶ条を受け入れ減税に踏み切ってその旨庄屋や代官に通知した。

これは川北の庄屋に知恵者が居て、農民を巻き込まず庄屋だけで代官所を通じての上申であり、一応成功した。この減税運動は川北だけの庄屋の連盟で川南9ヶ村が加盟していないが、その理由はわかっていない。

有馬永純の糸魚川左遷

この年10月有馬永純は、領内の政治不行届という百姓逃散事件の責任を問われ、翌5年春、越後の国糸魚川5万石に移封を命じられた。5万石といっても名目だけで、実質は遠く及ばず、城郭も無い国への事実上の左遷であった。前述のように有馬藩は財政逼迫の折であったので、家臣を皆連れて行くことが出来ず、200余人を残し、船を雇う金が無く、実に一年余りかかって、数回にわたって引越しすることが出来た。

諸塚村史より


■延岡城跡・・・高橋元種によって築かれた本格的な平城です。

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