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蚊口浦海浜公園

近江地蔵堂地図 ココ

蚊口浦:(宮崎県児湯郡高鍋町蚊口浦)

高鍋駅裏の広い防潮林の中を細い道路が縦横に走っている。あちこちに古い墓石群が目立つ。一帯が蚊口浦海浜公園である。そこにはキャンプ村、高鍋海水浴場、各種飲食店などがある。海水浴場の浜辺には高さ約40cmの「高鍋海水浴場 宮日新観光百景」の碑が建っている。目の前の砂浜には、太平洋の荒波が白い飛沫を巻き上げながら打ち寄せている。ここは若者たちのサーフィンのメッカだ。

その現代的な風情とは別に、ここは歴史の地でもある。約千二百年程前には、往時と地形は違うが、百済の福智王一行が上陸した(古湊)とされており、西南戦争では、官軍の一隊がここから上陸して薩軍を追撃した。

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海水浴場の北端

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高鍋高校の野球部員

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宮日新観光地百景碑

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広大な海水浴場

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怒涛の白波

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昔は広かったであろう宮田川河口

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周辺図

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若者だけじゃ無い?サーフィン族

蚊口(かぐち)という名称は、語源的にはその位置が小丸川と宮田川の両河口であることから「川口」であったものが「かぐち」に変化したものであるといわれています。

藩政時代の蚊口浦は日向灘に面し、北の小丸川と南の宮田川との間に位置し、宮田川がその河口あたりから蛇行して北に流れ、小丸川の河口に注いでいたためにいわば島のような形であったそうです。城下町から約壱里(4km)のところにある独立した集落であり、船乗りや商人たちが多く住んでいたようです。寛政四年(1792)蚊口浦を訪れた高山彦九郎は700軒ばかりの人家があったと「筑紫日記」に書いているので当時この港は相当賑わっていたことが想像されます。当時尾鈴山系の木材は高鍋藩の重要な財源でした。切り倒した木材を小丸川に流して、筏に組んで運び出し、蚊口港に集積して、そこから外部へ搬送し資金を稼いでいたものと思われます。又当時宮田川は川幅も広く、水量も多かったので川舟を使って生活物資を上流の集落へ運んだといわれています。

宮崎の街道(宮崎県教職員互助会)

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行きかた 都農から国道10号線を南進。小丸川に架かる高鍋大橋を渡るとすぐ、高鍋駅という標識どおりに左折。突き当りの駅前を右折。少し行って左側の踏み切りを渡ると坊潮林があって、抜けたところが海水浴場である。
周辺見所

botan 琴弾きの松

ひとつの善行

迷っている私の車の横を若者たちが走り過ぎていった。高鍋高校の野球部の制服をまとっている。やがて海水浴場に着いた。先ほどの高校生が軽く運動している。やがて浜に下りた。砂浜を走って鍛錬するのであろうと思っていると、なんとゴミ袋を取り出し、海岸の清掃を始めるではないか。そういえば高鍋高校という名に聞き覚えがあった。そうか甲子園の名門だ。さすがだね。名門は心構えからして違うのだ。ウン。また小さな子供連れの、一人の若い婦人に会った。その婦人もゴミ袋を持って清掃していた。微笑みかけると、はにかみながら微笑み返した。すがすがしい高鍋海岸である。